小説

雑草と太陽 18

陽はすっかり傾き、校庭がオレンジ色の海になる。 それでもここは、相変わらずの暗がりで、 それでも今は、それがなんだかとても心地良くて。 校庭の隅のアスファルトの段差に、ノリと2人。 他にはもう誰もいない。 目を細め、何処か遠くの方をジーッと見つめている。 きっと、勝利の感傷に浸っているんだろう。 そんなノリの隣りで、僕はただただそれに付き合う。 特に意味はないけれど、今僕が一番したいことがこれだから、 自分の気持ちに正直に、こうしているだけだ。 …と、 見つめる横顔が急に僕の方を向き、直に視線が合う。 心臓が1つ大きく跳ね、連鎖のようにすぐさま視線を地面に落とす。 …と、 「なんだ、ユキ、いたのか。」 え、…ちょ、 「そ、それはないでしょ。」 さすがにちょっとムカついて、叱るようにそう言う。 「そーか。」 何がそうなのか良く分からないけど、 「うん。」 とりあえずそう、返事をしておいた。 マイペースと言うか、単にノリらしいと言うか、 でもまぁ、これがノリだよね。何故だか、にやけてしまう。 胸のムカムカも、どうやら気のせいだったみたい。 「そーだ。」 「ん?」 今度は、何? 「ユキには、いろいろしてもらったからな。」 「え?…、う、うん…。」 まぁ、僕が好きでしてただけなんだけど、 むしろ付きまとい過ぎて邪魔に思われてないか心配だったくらいだけど、 「まぁ、その、あの、」 「…ん。」 …ん?歯切れ悪く続けようとするノリ。 も、それが出来なかったのか、その代わりとしてか、 適当な木の枝を拾い、それを豪快に地面に走らせる。 大きく不揃いな文字が、僕の目の前に描かれる。 「ん。」 これだ、とばかりに、その下にアンダーラインを付け加える。 『ありがとう』 直接口で言えばいいのに、どんだけ不器用なんだよ。 顔もあっちに向けちゃって、見せてくれない。 でもそれが、どうしようもなく可愛くて、 言葉で伝えられるよりも、きっと何十倍も嬉しくて。 「…はい。」 思わず敬語になったのは、 僕の気持ちがバレてしまいそうで、怖かったからかもしれない。 「…でも、なんだ、その、  なんだかんだで、余裕の勝利だったよな。」 僕に通じたことを確認すると、枝をポイッと得意気に投げ捨てて、 無理矢理話を逸らしたのがバレバレの不自然さで、 いつもの調子に戻るノリ。 なーにが余裕だよ、あんなにいっぱいいっぱいだったじゃないか。 あのノリも、あのノリも、あのノリも、全部初めて見るノリだった。 でも今思えば、どのノリも変わらずにカッコよかったな、なんて、 …駄目だ、思い出したらまた、…あーあ。 まぁ、とりあえず、 「うん。」 過程はどうあれ、結果だけ見れば、本当に余裕の勝利だった。 ノリが思い上がるのも覚悟で、返事ニ文字に同意する。 「だよな。」 あらら、完全に天狗だこれ。 でも、いいと思う。あれだけ頑張ったんだもん。 誰も見てないし、僕相手に好きなだけいい気になればいいよ。 呆れてるんじゃなくて、僕の願望として、ね。…と、 そうだ、1つ気になっていたことが。 ずっと訊かずに記憶の果てに飛ばそうと思っていたけど、 これだけ強気なノリを見てると、訊いちゃえって思っちゃう。 大丈夫、怒らないし怖くないって、約束してくれたし。 ふぅ、収まってきた下半身に力を入れて、…よし。 「そう言えば、あれ、なんだったの?」 「…ん?」 あれじゃ分からねーよ。あれじゃ分からないよね。 「あの、…言いたくなかったらいいんだけどさ。  その、…あの、もし、…負けちゃったら、…ってヤツ。」 体は大丈夫、制御出来ている。 ノリは、 「…あぁ。」 怒ってはいない、けど、いい表情ではない。 そりゃ、そうだよね。 「あれは、…」 少しだけシンキングタイム。 言いたくなかったら、別にいいんだけど、 ちょっとだけ、知りたいかな、その、興味本位と言うか。 口で言いづらかったら、その、土に書いてくれてもいいし、その、 「やってやろうか?」 !? モジモジする僕に、とんでもない提案をするノリ。 そんな奇襲攻撃、ズル過ぎるよ。 過去最高速でハチ切れそうになる、僕のあれ。 前屈みにならざるを得ない僕を、どうか見逃してください。 「どうした?腹でも痛いのか?」 「いや、そうでもない…」 「?」 「な、…なんて?」 「え、だから、やってやろうかって。  鹿島が考えた、負けたときのヤツ。」 「なっ…」 な、ななな、そんなこと言われたら、 僕、どうすれば…、 「まぁ、ユキが嫌なら、別にやらんけど。」 それは、何と言うか、ちょっと、もったいない気も… 「そ、んなことは…、な…、い。」 「ん。…ふむ。」 …ふむ。 「ユキがやって欲しいなら、やってやってもいいけど。」 核心に迫るノリからの、きっと最後の確認。…チャンス。 どうする、どうするの僕。 本能はもちろん、最低だけど、イエスと言ってる。でも、 ここで理性を捨ててしまったら、僕は本当に、 どうにかなってしまうかもしれない。 ノリは、大事な、大好きな、…友達だ。 そんなノリで、欲望の赴くままに、興奮しようなんて…― 「…やって欲しいような、気が、するような気が、  しなくもなくはない。」 自分でもわけが分からない。 頭の中の壮絶で不純な葛藤が、 こんなカオスティックで曖昧な回答となって、 無責任にも僕の口から漏れ出してしまった、みたい。 そんな、うんともすんとも言い難いような僕の意思表示に、ノリは、 「分かった。」 一言そう言って、御意する。 何が?どっちに分かったの? 高速に脳内で回転する疑問の答えは、 「じゃあちょっと、目ぇ瞑れ。」 ノリのその言葉で、そっちに転んだんだと理解する。 溶けてしまいそうなほど、温度が上昇する体。 心臓のドキドキが、よもや騒音のように耳の中で響き始める。 どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。 今更になって焦る僕と、迷いもなくゆっくりと目を閉じる僕。 人間の欲望って怖い、身をもって実感してしまった。 目を開けたら、そこには何が広がっているんだろう。 目を開けたら、そこにはどんなノリがいるんだろう。 自分の鼻息の荒さに、正直ひく。 こんなにも恥ずかしいのに、こんなにもドキドキするのに、 なのに、こんなにも気持ちいい。 早く終われと、もっとこのままが、螺旋状に交差して、 もうどうにでもなれと、自暴自棄に陥りそうになるその手前― !? もう今日何度目かの驚愕。 でも、そのどれよりも特殊で、異質で、優しい驚き。 時空を越えそうなほどに先走っていた体内の粒子たちが、 ストップウォッチで止めたように、ピタッと静止する。 僕の顔に、何か当たった? 鼻に…、それに、…、口に…? なんだかちょっと柔らかくて、 なんだかちょっと、温かくて… 固まる体、止まる思考。それって― 「もう、いいぞ。」 横から聞こえるノリの声に、ぼんやりと従う。 二重三重になる目の前の景色。 それが徐々に原型に戻り始め… 操り人形のように、声のした方へ顔を向ける、と、 「キスって、これで合ってたか?」 照れる様子もなく、ただ確認のためだけのように、 今自分のした行為に疑問符を付けて、無邪気に僕に訊いてくる。 だ、よね。…今、僕はノリと、ー … そっか。 あはは、なんて僕は、下劣な人間なんだろう。 当たり前のように、 再び全裸になるノリを独り占めできる光景と、 更にその先の何かを、想像してしまっていた。 鹿島が恥ずかしくて口に出来ないくらいだから、何かと思ったら、 なるほど、そう言うことか。 確かに、こんな恥ずかしいこと、他にないかもね。 「なんでこれが、罰ゲームなんだろうな。」 まったく理解できない様子のノリ。 そりゃそうだよ、ノリはそう言うことに関しては、 究極的に鈍感だし、まだまだ縁もないみたいだから。 相手が僕でも何とも思わないのは、ちょっとビックリだったけど。 ノリ、キスってね。好きな人にするものなんだよ。 それにね、普通は男の人が女の人に、女の人が男の人にするものなんだ。 だから、本当は、今ノリがしたのは、普通のことじゃないの。 だから、罰ゲームだったんだよ。 そんなこと、口に出して説明できるはずもなく、 ただ脳内で、意味もなく何回も反芻して、 なんだかどうしようもなく、複雑な気持ちになって。 こんな嬉しいことないはずなのに、これ以上の御褒美ないはずなのに、 なんでこんなに、寂しいんだろう。 山なりになる自分の股間を、叩き潰したくなる。 どーせ痛いから、しないけどさ。 「ん、…嫌、だったか?」 勝手に萎れる僕に、ちょっとだけ不安そうに訊いてくる。 はは、何を1人でしょぼくれてるんだよ、僕。 素直に笑顔で喜ぶ、それでいいじゃんか。 「ん、別に。」 何も悟られないように、笑顔で余裕ぶる僕。 「うむ。」 安心の無表情に戻るノリ。 うん、これでいいんだよ。 「さて、っと。」 もう十分勝利を噛みしめることが出来たのか、 ランドセル片手に、ヒョイっと立ち上がる。 「俺、帰るけど。ユキは?」 背中に回しながら、見下ろすように訊いてくる。 「帰るに決まってるでしょ。」 当たり前でしょ。 「だよな。」 「…じゃあ訊かないでよ。」 もしかしてこれって、ノリなりのボケだったのかな。 そんな真顔で言われても、誰も上手に対応なんて出来ないよ。 なんて、ノリがそんなに器用なわけないか。 「じゃ、帰るか。」 「うん。」 ゆっくりと歩き出すノリ。 その背中を少し眺めてから、小走りで追いかける。 ノリと肩を並べながら、いつまでこのままでいれるのかな、 そんなことを、思った。 答えなんて分からないけど、分かりたくもなかったけど、 いつまでも続くわけはない、それだけは、痛いくらいに分かった。 ノリの隣りにいれなくなったら、僕はどうなってしまうんだろう。 前のようにまた、誰にも気づかれないような、 暗い子になってしまうのかな。 ヤだな、ヤだけど、ヤだけどでも、 でもならせめて、踏まれても踏まれても、立ち上がれるような、 強い子にならなくちゃいけないな。 …不安で、不安で、不安だな。 気を抜いたら、泣きだすかもしれない。 だからたくさん、ノリに話しかけた。 また今日の夜も、眠れないに違いない。 でも、そんなこと、今は、考えないことにした。 もう唇がカサカサだ。 どうすればいいのかな、見当も付かないよ。 なら、今は、出来るだけこのままで。 出来るだけ、ノリの側で。 温かくて明るい、この場所で。 遠くへ行ってしまうその日まで。 「あ、そう言えば明日さ―」 その日までは、どうかよろしくね。 僕の太陽。
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