小説

テイク7 scene13

「…あら~?まだ終わってなかった~?」 聞こえてきたのは聞き覚えのある女性の声。 …言うまでもない、お母さんユキコ役の渡辺さん。 休憩から帰ってきたんだ。 自分のシーンがそろそろだと思ってきてみたら まだわたしたちにカメラが向けられているから 少し驚いた…のかな。 「ん~、まぁ、ちょっと押してるね~。」 監督がメガホンをポンポンやりながらそう言う。 それほどきつくなく、穏やかな口調…だと思う。 「…えっと、今どこですか?」 「シーン21-6だね。」 「あらら、まだまだですね。  なかなか進まず?珍しいわね~。」 「まぁまぁ、そんな日もありますよ。はっはっは。」 普段はNGを出すと、それなりに怖いムードを作り出すのに 今の監督からはそんなオーラを感じない。 なんか、わたしたち2人を楽しんでるような …そんな印象を受けてしまうような笑顔…が 脳裏に浮かぶ。 「じゃあもうちょっと楽屋で休んでいようかし…  …あら、えっと、お風呂のシーン?」 「そうそう、なかなか上手くいかなくてね~。  次で5テイク目?かな。」 「あらら…。」 渡辺さんのその声で、一旦2人の会話が止まった。 …いや、正確にはわたしのこの位置からだと 聞き取れなくなってしまった…と言うのが正しい。 もしかしたら何か 小声で2人の会話が続いていたのかもしれない。 その証拠に、次にわたしの耳に聞こえてきたのは 「…じゃ、ちょっと見学しちゃおうかな~?」 と言う、渡辺さんの、嬉しそうな 久々に美味しい食べ物にでも出会ったかのような トーンの高い声だった。 ニヤニヤと子供のように微笑むお母さんの顔を 容易に想像することができてしまう。 …増えちゃった。見物人。 …ごめん、さっきわたしがちゃんと演技してれば こんなことにはならなかったはずなのに… ごめん大志、…大志のおちんちん 渡辺さんにも見られちゃうことになっちゃった…。 大志が今傍にいないから分からないけど 絶対に今の会話が大志にも聞こえているはず… …きっと、さらに演技がし辛くなっちゃったのは ほぼ間違いない。 …ごめん、本当にごめんなさい… でも、もう、次は決めよう…? もう後ちょっとのところまで来てるんだし… ここまできたらもう 出来るだけ少ないカットでOKテイクを出せるように 出来るだけ被害が拡大しないように 頑張ろう…? きっと、誰のせいでもない。 きっと、誰も悪くない…。 見えないところで怒り狂う大志の姿が鮮明に浮かび それをなだめるように、優しく、無責任にも語り掛ける。 …わたし、…頑張るから…… 「よっしゃ、じゃ次こそ決めるぞ~!!  テイク~、…5、か?5だな。
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